今日のニュース(学校から最後の二宮金次郎像が撤去された)を見ていて、やっぱり寂しく思い、過去の記事(東京のパワースポットを歩く)をこちらに転載することにしました。二宮尊徳という人物は、日本人が日本人として尊敬される人格をまさに体現した人だと思っています。
「こんな人になりたい」と思えなくなる人だらけになったら、日本国は終焉してしまうのではないでしょうか。
以下、令和4年10月の記事
先週はいろいろが重なって更新する時間がなく、すっかりサボってしまった。こんな記事でも楽しみにしてくださっている方がいるとしたら、申し訳ない限りである。それにしてもこの夏は、さまざまな世界が崩壊し、終焉を迎えた年だった気がする。年初に私が記したように、後年に振り返ると歴史の転換点となる年の始まりなのかもしれないなぁとつくづく思う。最大の崩壊はたぶん今まで大手を振って闊歩していたメディアになるのではないか。世界中の人たちがメディアに対する信頼を失っていく様子が、自らの報道で証明している。来年の今頃、どんな様子になっているだろうか(言い訳終わり)。
消え行く金次郎さんの歩き読書姿
さて、勝海舟が「あんな時勢には、あんな人物が沢山出来るものだ。時勢が人を作る例はおれはたしかにみたよ」と言った人物がいる。あんな時代とは幕末で日本中が飢饉に見舞われて、物価の急上昇と混乱の中財政を立て直し、市井の人たちの生活を助けた人物がいた。それが金次郎さんこと二宮尊徳、昔の学校にはほとんど銅像が建てられていたが、今はどうだろう。本を読みながら歩く姿が、事故を誘発してよくない、との批判から背負子を背負った立ち像がどんどん姿を消していったのだそうだ。その背景に目を向けず、見た目だけでクレームをつける今の世の中をよく表している。全国学園闘争が衰退してその活動が教育現場へと浸透していった1970年代以降、金次郎さんの姿はどんどん消えていったようだ。
天保の飢饉から600の村を救う
二宮尊徳は、江戸時代後期、現在の小田原市の農民の長男として誕生、父親は散財の挙句、最後に残った田畑も川の決壊で失ってしまった。14歳の頃から亡くなった父に代わり一家四人の生計を立てるため昼夜働くも、2年後には母も没し伯父の家に引き取られる。この頃から拾った苗や菜種などを細々と育て、油や米を収穫するなどをしている。
その後親戚方を転々としながら、20歳の頃生家の再興を成し遂げ、また武士の家で奉公人として仕えた。その尊徳の手腕に小田原藩の家老が目を留め、藩の財政の立て直しを依頼、5年弱で千両あった負債を300両の余剰にまで立て直した。その後、小田原藩で尊徳は数々の財政立て直しをして、その名を知らしめる。そして、天保の飢饉にあっては、600もの村や地域を復興させたと言われている。
現代の経営者に影響を与えた考え方
尊徳には「報徳思想(仕法)」というものがあった。簡単に言えば「私利私欲に溺れず社会へ貢献していれば、いずれ自らにその利益が帰ってくる」と言う考え方である。それには「至誠・勤労・分度・推譲」が基本にあり、他人に要求するものがあるならば先に先方の要求を聞く、という接し方を心がけたのだという。この考え方は、のちの経営者たちの指標にもなり、渋沢栄一氏や豊田佐吉氏(トヨタ自動車の創業者)、松下幸之助氏(パナソニック創業者)、稲盛和夫氏(京セラ創業者)に影響を与えたらしい。
近まのことばかり考える者は貧乏する
尊徳の伝説はいくつも残るが、その根幹には常に誠実・公平であることが底流している。例えば役人が不正なマスを使って量を誤魔化し差量を横領していたことから、藩内の一斗枡を改良して統一させ不正の元を絶ったこと。自分の前で猛烈に働く人間を「その勢いで1日中働けるはずがない。今だけよく働いてみせているのだろう」と叱った話。金の貸し手には借り手の立場で、借り手には貸し手の立場で物を見よとアドバイスした話。その道で苦労の末名人となった人の技は神技でありどんな技でもばかにはならないと諭した件など、尊徳の言葉は後世本にまとめられるほどの訓えとして今も大事にされている。「遠い先のことを考える者は富み、近まのことばかり考える者は貧乏する」大いなる教訓である。サラリーマン社長には全くない視点であろうか。
生誕の地に誕生した報徳二宮神社
そんな尊徳を神として祀る社が「報徳二宮神社 」あるいは「二宮神社」という。全国にいくつか社があるが今回は、生地の小田原にある報徳二宮神社と、没した土地の今市の報徳二宮神社をご紹介しておきたい。
尊徳は、農村再生のために互助会、あるいは信用組合的な組織「報徳社」を各地に設立した。組織内の人々が余剰のものを持ち寄り、集まった中から設備投資や開墾などに必要な経費を組合員の中で順番に受けられるというような仕組みである。この組織は現在も発展した形で大日本報徳社となり現在に至っている。この報徳社の発案により、報徳二宮神社は小田原城址に明治27(1894)年に建立された。拝殿の礎石は天保の大飢饉の折、城の米蔵を開け領内から一人の餓死者も出さなかったという逸話から、米蔵の礎石が用いられている。境内には2体の尊徳像があり、ひとつはもちろん薪を背負い歩きながら本を読むものである。
終焉の地に誕生した報徳二宮神社
日光市今市にある報徳二宮神社は、尊徳の子・二宮尊行と高弟・冨田高慶も相殿として祀られ、明治31(1898)年に鎮座祭が執り行われた。起工は明治26年というから、同じ頃に設立が考えられたのだろう。
尊徳は、70歳となる安政3(1856)年10月20日(新暦11月17日)に今市報徳役所内で亡くなった。「余を葬るに分を越ゆることなかれ、墓石を立てることなかれ」と遺言されたこともあり、如来寺(現在の報徳二宮神社)に埋葬されたが墓石はなかった。その後の3回忌となる安政5年にに墓碑が建てられて現在に至っている。
本当のお墓はどこに?
この他、相模原市や栃木の真岡市などにも二宮神社があるが、その土地の「二宮」を意味する「二宮神社」と混同しがちで(こちらは律令国の数・68と同数もしくはそれ以上ある)あるが、尊徳が祭神の二宮神社は小田原と日光の2社から分社されたものであろう。明治以降、金次郎さんを尊崇することは増え、戦後には1円札の図柄にもなっている。
そんな金次郎さんだが、遺言が仇となったのか、本当のお墓がどこにあるのははっきりしない。
というのも、没後84年にわたって埋葬されず吉祥寺(駒込)に保存されたままになっていたという話が昭和になって新聞記事となったのだ。二宮家の菩提寺は小田原の善栄寺で、今市の如来寺に仮内葬し、善栄寺には二宮尊徳の歯と遺髪を納めたのち、曾孫・徳の代まで納骨せずに手元に置いていたらしい。大正12年に徳は菩提寺と定めた吉祥寺に遺骨を預けて南洋方面に出発、途中の船内で病死したことから吉祥寺に保管されたままとなっていたという内容だった。これを知った区長らが中心となって墓碑が建立されたのだという。現在、吉祥寺の境内に増上寺にある将軍の霊廟くらいの立派なものが建っている。
以前、吉祥寺の記事を書いたときにはここに金次郎さんのお墓があることを疑問にも思わず素通りしてしまったが、なかなか含みのある話だったということである。
さて、金次郎さんの格言の中に「道徳と経済を別に語るな」というものがある。正確には「道徳なき経済は罪悪であり、経済なき道徳は寝言である」というものだが、まさに今の時代にこそふさわしい格言なのではないだろうか。何しろ道徳どころか、人としてあるまじきことが罷り通る世界になりつつある。今こそ二宮尊徳の生き方を思い出すべきなのかもしれない。