前回、恐山菩提寺をご紹介しましたが、この霊場とセットで、というより欠かせないスポットが恐山菩提寺から直線距離で24キロほど西にいったところにあります。その名も「仏ヶ浦(ほとけがうら)」、古くは仏宇多(ほとけうた)と呼ばれていたようです。昭和16年に国の名勝及び天然記念物に指定された景勝地ですが、恐山を訪れた修験者や参拝者にとっては、縫道を抜け石山を通り、大岩の間をくぐるようにしてこの海岸までたどり着くことが、修験や祈願の最終となっていました。
一番楽なアクセスは観光船
もちろん、ヘタレの私が縫道石山のハイキングコースを通り、ここにたどり着けるはずもなく、恐山菩提寺から車で約1時間かけて「津軽海峡文化館アルサス」というところへ移動、ここから仏ヶ浦までの観光船に乗ってようやくたどり着きました(実は途中、天然本鮪の1本釣りで有名な「大間」に寄ったんで、2時間弱ほどかかりました)。もちろん、観光船を利用せず、国道338号から遊歩道を利用して仏ヶ浦の海岸線まで降りていく方法はあります。100メートル程下る崖を階段で降りていくので、見ただけで目眩がしそうな絶景ではありますが、降りるのも登るのも、たぶん私は途中で棄権しそうでしたので最初から選択肢は観光船しかありませんでした。
巨岩や奇岩に仏由来の名が
仏ヶ浦とは、海岸線としては1.5キロほど、幅200メートル(干潮時)の湾で、白色あるいは緑がかった巨岩や奇岩が立ち並ぶ不思議な景色が広がる場所です。特徴的な岩々には名前がつけられていて、北端に五百羅漢、屏風岩、如来の首(別名五ツ仏)、蓬莱山(別名十三仏)、極楽浜などが連なり、南端に一ツ仏の特徴的な姿が望めます。観光船での滞在時間は、だいたい30分くらいあるのですが、全部をゆっくり見るには少し時間が足りないかもしれません。
ちなみに、定期観光船は恐山菩提寺が閉山時には運行していませんのでご注意ください(観光ツアーなどでの仕立て船はのぞく)。
自然の営みが仏ヶ浦を作った
仏ヶ浦の絶景がどのようにして、いつ作られたのか、はっきりしたことは分かっていません。近年の研究によれば、約400万年前に海底火山の活動により生じた火山灰が押し固められてできた「凝灰岩」という岩が、仏ヶ浦を形作っているらしいのです。凝灰岩というのはもろく、波や雨水、風によって削られ、またそれらが凍って膨らむことで岩が変形していきます。現在もなお形を変えていると言いますから、円仁が恐山を開いた時と、今の仏ヶ浦の景色は変わっているのかもしれません。
円仁が広めた仏教にすでに浄土の観念があったかどうか、私には分かりませんが、死者の集まる恐山の西方に「極楽浄土」への入り口のような仏ヶ浦が位置しているのは、偶然ではないような気がします。昔の人たちがそう感じたからこそ、この地の奇岩たちに仏にちなんだ名前をつけたのでしょう。
今では、青森有数の観光スポットに
仏ヶ浦の名を世に知らしめたのは、「神のわざ 鬼の手つくり仏宇陀 人の世ならぬ処なりけり」という句を作った大正時代の文人・大町桂月と言われています。平成元年には、恐山と一緒に「日本の秘境100選」にも選出され、青森県の代表的な秘境スポットとなっています。
私が訪ねた日は、前日からの雨で観光船の出港も心配しましたが、観光バスが次々と到着し、予定の1隻では足らず2隻の船で仏ヶ浦へと向かうほどでした。
お地蔵さまがこの地の守り神
仏ヶ浦には地蔵堂が設けられています。恐山の本尊が地蔵菩薩だと考えれば、当然のお地蔵さまですが、地獄で会う仏さまといえばお地蔵さんですから、この場所はやはりあの世とのつながりと考えられてきたのでしょう。
そして地蔵堂には、たくさんの着物が奉納されていました。これも恐山と同じように、亡くなられた方々の着物なのだそうです。遠方からこられた参拝者の方々からの奉納が多いと聞きます。
また、石の下にできた小さな隙間にも、小さなお地蔵さまがいくつも並べられていました。聞けば、地蔵堂の本尊・お地蔵さまは、場所柄いく度か波にさらわれたこともあり、その度にこの地へ戻ってこられたお地蔵さまなのだそうです。
義経は生き延びて蝦夷へ行った?
この奇岩の景色を作ったのは、京をのがれ奥州藤原氏を頼った源義経だという伝説もあるそうですよ。自刃した義経は、替え玉だという「義経北行伝説」のひとつが、ここ仏ヶ浦に残っているのです。
この浜から蝦夷の地へ橋をかけ渡ろうと考え、多くの材木を牛に運ばせました。ところが、あまりに多くの材木を運ばせようとしたため、牛が疲れ果て倒れてしまったため、橋をかけることができず、放置した材木が石になってしまった──というお話しです。ここから北海道まで最短で40キロほど。晴れた日は対岸に北海道が見えますが、流れの早い津軽海峡に橋をかけるのはかなり無謀な気がします。
仏ヶ浦、仏宇多という名の由来は諸説あるようですが、宇多といえば奈良、やはりそこに円仁の思いを感じずにはいられません。Wikipediaなどに、アイヌ語由来の説を論じてありますが、この地にそのような気配が入り込む隙はありません。
先人たちの亡くなった方たちへの清らかな思いから、恐山に加えて、ブッダと読める「仏宇多」と名付けられた土地は、後世の人間たちが言い換えてはいけない、神聖な場所、それが陸奥半島なのだと思った旅となりました。