関東一、古来発展した秩父地方

「石龍山橋立堂」 巡拝
「石龍山橋立堂」
武甲山への登山口でもある橋立堂

武甲山への登山口でもある橋立堂

久しぶりに秩父の三峯神社を訪ねたら、1日(朔日)でもない平日だったにも関わらずかなりの人がいて少し驚きました。コロナ禍前ではありますが、ここまでの人に出会ったことはなかったのでちょっと感動でもあります。ヤマトタケルの像近くにも人がずいぶんいて、閑散としていた以前とは隔世の感があります。やっぱり現在、神社仏閣訪問ブームなんでしょうかね。私の引っ越しのせいもあって、三峯まではかなり遠くなってしまったので、今回初めて西武線を利用しての訪問でしたが、値段が安く、速いので(飯能以降は除く)思ったより快適でした。秩父でもいくつか訪問したかったので、現地でレンタカーを調達したのですが、走っている車のナンバーを見ると、かなり広範囲から秩父に集まっているようでした。にも関わらず、道の駅が定休日ってどういうこと? って感じの訪問記です。

秩父神社

秩父神社

歴史書に必ず名が出る秩父

秩父の歴史は確認できるだけでも約1万6000年前に遡れます。旧石器時代の石器が発掘されているほか、その後の縄文時代の石器・土器・遺跡など数多くの発掘がなされている土地です。「ちちぶ」の名は、初期の文献から残されていて古くは「知知夫」と表記され、大和政権の初期から国造(くにのみやつこ/大和政権から地方統治を任されていた首長のこと)がいて、このころから存在していたとされる神社が現在もいくつも残っています。中世にも平将門や太田道灌、長尾景春らの伝説が各地に残されていて、江戸時代に徳川家康の支配下となったことから武蔵国の一部として江戸の人たちの生活を支えてきました。余談ですが、知々夫国造は八意思兼神(やごころおもいかねのかみ/秩父神社の主祭神)の子孫とされています。

観音霊験記 秩父巡礼二拾八番橋立石竜山橋立寺 郡司報蛇身(国立国会図書館デジタル化資料より転載)

観音霊験記 秩父巡礼二拾八番橋立石竜山橋立寺 郡司報蛇身(国立国会図書館デジタル化資料より転載)

秩父観音霊場巡りは特に女性に人気

江戸時代に盛んになった観音信仰の中で、秩父札所への巡礼が人気となり道や川航路が整備されていきました。ちなみに「秩父34か所の観音霊場」の開設は室町時代中期と考えられています。言い伝えによれば文歴元年(1234年/甲午)3月18日に13権人が巡拝したことが始まりとなっていて、この日を元に12年に一度午年に総開帳が行われています。古い歴史があるように思えますが、「秩父34か所」は、100観音霊場の中では一番新しいのです。「西国三十三所」は平安時代、「坂東三十三所」は鎌倉時代に始まったとされていますから、まぁダントツに後発なんですが江戸に近かったためか、人気が高く特に女性の巡拝者が多かったようです。秩父の今は埼玉県となっていますが、江戸時代は国内(武蔵国)ですから、旅は楽だったこともあったのでしょう。有名な「入鉄炮出女」を取り締まる関所のうち「栃本関所」(現在の国道140号の途中、三峯神社へ曲がる交差点から5キロ先付近)では、近村からの善光寺甲州身延山詣、甲州側からの秩父巡礼についての女性の通行が許されていたという記録があるくらいなのです。信仰というより遊山に近かったのかもしれません。加えて観音さまのご加護も期待できますし。

削られた武甲山の北側斜面

削られた武甲山の北側斜面

秩父の象徴・武甲山

「秩父34か所の観音霊場」の各お寺は、秩父盆地を囲むように位置しています。この盆地と産出した銅のおかげで、一帯は豊かでゆったりと生活できていたようです。東京湾にもつながる荒川が作ったこの盆地にヤマトタケルも訪れ、方々に祠を築いています。これら伝説が多く残る由縁は、生活を営んでいる人たちが多く、高い文化を持っていたからこそでしょう。
また、この付近の各神社仏閣が神奈備山(神霊が鎮座する山)として崇めたのが、ヤマトタケル伝説も残る武甲山です。今は、石灰岩切り出しのため、北側斜面は見るも無惨な姿となっていますが、日本二百名山の一つとして取り上げられてもいる名山でもあります。

武甲山を近くでみるとこんな感じ

武甲山を近くでみるとこんな感じ

登山者の間でも人気の武甲山

この武甲山、実は登山者にも人気のスポットになっています。初心者でも登りやすいと言われ、山頂には「武甲山御嶽(おんたけ)神社」が鎮座していますが、明治時代までは蔵王権現、熊野権現、大通両権現などがあったようです。現在の祭神は、日本武尊、男大述尊(継体天皇)、広国押武金日天皇(安閑天皇)となっているようで、うーん、やっぱり蔵王権現が神社化する際にこのような神さまになってしまわれたのでしょうね。蔵王権現とは修験道の神さまで、日本で誕生した固有の神(仏)さまです。まぁ、ヤマトタケルは武甲山の名の由来にも挙げられる人物だし、理解できますが、継体天皇と安閑天皇は…何故? たった5年未満の在位天皇を? 蔵王権現が三位一体とされている由縁でしょうか。
と疑問も残りますが、へたれの私が登山などできるはずもなく、武甲山の裏登山道入り口にあるお寺へお参り入りしました。

お堂はこんな感じで建っている

お堂はこんな感じで建っている

秩父は奥多摩と表裏一体

ここは秩父34カ所霊場の28番札所で、「石龍山橋立堂」と言います。背後に立ち上がる石壁に何とも圧倒されますが、実はこの石壁、石灰岩で中は鍾乳洞になっており、中を探索することもできます(もちろん案内路に沿って)。
以前ご紹介した奥多摩の「大岳鍾乳洞」からも直線距離で20キロほど。もちろん車で走れば2時間近くかかりますし、公共交通機関を使えば4時間になりますが、昔の人のように尾根を歩いて渡ればそれほどの距離でもありません。もしかしたら鍾乳洞は地下でつながっていたりする可能性だって!というくらい秩父と奥多摩は似通っているのです。

神馬堂

神馬堂

本尊が馬頭観音の理由

この場所からは石器時代・縄文時代の遺跡も見つかっていて、古代の人たちが鍾乳洞(あるいは加工しやすかった石灰石)を大いに活用していたことがわかります。
橋立堂の観音さまは馬頭観音で、秩父地方で馬を産み育てて産業としていたことと関係があるのでしょう。馬頭観音は馬の守護仏と考えられていて、馬の関係者(今では競馬なども)たちの参拝が多いことでも知られています。馬で知られるよその神社仏閣の絵馬が神馬堂に掛けられていたのも興味深かったです。総本家とでも考えられているのでしょうか。ちなみに神馬像は左甚五郎の作なのだそうです。うーん…。
ご本尊は26センチと小さな仏さまでありましたが、大きな絵馬が新旧合わせてお堂に掲げられていました。馬頭観音が祀られている百観音札所は、ここ以外には西国霊場の29番松尾寺だけなのだそうですよ。

入り口はだいぶ降った場所に

入り口はだいぶ降った場所に

橋立鍾乳洞の内部は

この後、この背後にある鍾乳洞へ入ってみました。洞内写真撮影不可だったので、外だけの写真しかありませんが、入口と出口は別で下からひたすら登りながら散策する感じです。「大岳鍾乳洞」よりも中は若干広く、ヘルメットが必要な感じはありませんが、やはり腰を屈めて歩かなくてはいけない場所、工事現場さながらの急な階段などが随所にありますし、基本ずっと登りなので足腰が弱い方はちょっとキツイかもしれません。
ただ、古代の人たちがこの中に入り生活していたのだろうか、と思わせる場所も多々あり、平穏をもたらしてくれる石壁に祠を建てお供えをして感謝した気持ちはよくわかります。
ちなみに、お茶や食事のできる施設も隣接しているので、鍾乳洞巡りで疲れ果ててもゆっくりと休憩できます。

三峯神社の境内でも社で作ったお酒を販売

三峯神社の境内でも社で作ったお酒を販売

さて、秩父が古代から発展した理由は、何より水がふんだんにあったことが一番の理由だと思います。加えてこれが石灰岩のおかげで上質で美味しかったのでしょう。今でもこの水のおかげで、秩父が「そばの里」として存在できること、また、地酒の産地として日本酒のみならずワインや焼酎を生み出していることは、何万年前から変わらない水が存在する土地であることを証明しているのではないかと思います。
霊場巡りはさておき、おいしいお蕎麦と日本酒を目当てに、西武鉄道のゆったりとした特急で出かけるのも楽しいですよ。

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