
飛鳥寺
昨年秋に、久しぶりに京都を訪ねました。どれくらい久しぶりかというと…8年ぶりです。
平成の初め頃から、毎年1回あるいは2回は訪れていたのですが、2016年の秋、あまりの観光客の多さに「もう無理!」と参拝を諦めました。ほぼ毎年観覧していた祇園祭もその後、1回だけ日帰りという弾丸での訪問で、全部の鉾を回ることもできませんでした。

京都・清水寺の参道と本堂前の舞台(ちなみに平日午後3時すぎ)
もう京都訪問は無理かもしれない
なぜ再び訪れる気になったかといえば、私ではなく友人たちの希望だったからです。数年前以上に混雑していた清水寺までの参道、拝観券を買うために延々と並ばされた金閣寺、駐車場から出るだけで30分以上も時間がかかる、など観光公害は最後に私が訪れた時以上のすさまじさでした。加えてほとんど日本人らしき観光客は見当たらず、自撮り棒で自分を写しながら歩く人たちを避けながら歩かねばならない街中では、周りの景色を楽しむこともできません。お店もずいぶん入れ替わっていたようでしたが、そんなことに思いをはせる気にもなりませんでした。こんな状況、京都の人たちは望んでいるのでしょうか? たしかに外国の人たちはお金に頓着なく、いろんなものを買い、食べ、世界に発信しているのでしょうが。関西圏への参詣の旅はほぼ絶望かもしれないですね。

橿原神宮の隣にある神武天皇畝傍山東北陵
大和朝廷の始まりはどのあたり?
代わりと言ってはなんですが、このところ私は奈良・滋賀・和歌山の古の都を訪れるようになっています。まぁ、奈良も駅近く、東大寺付近はもうちょっと厳しくなってはいますが、それでも駅から離れた古都はまだゆっくりと参拝できる場所も残っています。
日本の歴史記録の多くが、「古事記」「日本書紀」に依っています。私たちは学校で、平城京・平安京への遷都については、年代までも含めて覚えさせられましたが、初代・神武天皇の時代から都は天皇の宮として記録されています(記録されてない天皇もいるのですが…)。Wikipediaには15代・応神天皇の宮である軽島豊明宮(かるしまのとよあきらのみや)から順に並べられていますが、応神天皇の宮は不明とされている説が多いようです。やはり歴史の記録がおこなわれ始めた6世紀あたりの文献から引用することが、研究者の中では通常なのでしょう。

やたらと広い境内を持つ謎めいた川原寺跡(弘福寺)
初代から30代天皇までの都の位置を見てみた
ですが、せっかくなので神武天皇の大和朝廷からの宮を追ってみました。欠史八代という言葉もあるように、実在を否定する説や一部は推定の宮もありますが、記録が失われていることと実際の出来事を否定することとは別だとの思いもありますので、ここはひとまず、「ある」ということで。
30代天皇までの都を地図上の印でみたら、数カ所大阪に居を構えた天皇はいたようですが(推定地が多いので)、ほとんどが現在の奈良県、明日香村、桜井市など、奈良県の南側に位置する山際に都を置いていたことがわかります。もちろん初代が、現在の橿原神宮の場所に朝廷を置いたのですから、そこから大きく外れる場所にというわけにもいかなかったのかもしれないのですが。

聖徳太子誕生の地・橘寺
桜井の地と明日香村は天皇の足跡の宝庫
10カ所も都跡が残る桜井市では、宮跡めぐりのマップもあって、近くの神社仏閣(たとえば大神神社、談山神社、安倍文殊院、相撲神社など)の紹介もあって、1日だけでは回り切れないかもしれないですね。
これ以前も、この先の33代・推古天皇の時代からも何度も都が置かれた明日香村には、教科書にでてきたような地名が今も残ります。最も有名なものとしては「斑鳩宮」。聖徳太子の居として知られていますが、その西方に建立されたのが法隆寺ほかの伽藍だとされています。そして、この当時の天皇の宮は、現在「飛鳥宮跡」と総称されている場所付近です。遠いですよね、直線距離で10キロ以上あります。
飛鳥宮跡の場所には、皇極天皇、舒明天皇、天武・持統両天皇などの宮が置かれていて、大化の改新の始まりとなった「乙巳の変」(蘇我入鹿が暗殺された)の舞台でもあります。

蘇我入鹿首塚
やっぱりあるよね、首塚
この明日香村には、多くの興味深い寺社が点在しています。もちろん「高松塚古墳」や「キトラ古墳」の壁画も見逃せいないものですが、「橘寺」や「岡寺」、歴史が不明と言われるわりに立派すぎる「川原寺(弘福寺)」などは言うまでもありません。
特に蘇我馬子によって創建された「飛鳥寺」の釈迦如来(トップ画像)はこの時代を感じさせる、この目でしっかりと見ておきたい仏さまのひとつです。
もうひとつは、このお寺のたぶん境内ではない場所(むしろ田んぼの真ん中)にある「蘇我入鹿首塚」。
私がよく書く「祟り」「怨霊」という言葉は、平安時代に生まれた概念のようです。崇徳天皇や菅原道真、平将門といった人物より、はるか以前に、無念の中で亡くなった人物は多くいました。その人たちは祟らなかったのか?

飛鳥の東、山の中腹に位置する岡寺(龍蓋寺)
入鹿の首から逃げ惑った鎌足
そうではないようです。
乙巳の変で蘇我入鹿が最期に言った言葉「「臣罪を知らず(私になんの罪があるのか)」は、まさに青天の霹靂の襲撃だったことを物語ります。この日は雨が降っていました。この後、青い雨具をまとった異人風の男が、朝廷のあちらこちらに出没するようになります。
首塚から東に5キロほど行った場所に、中臣鎌足の長子が、鎌足を改葬して墓を建立したことに始まる「談山神社」があります。乙巳の変の談合をした地としても知られ、特に秋の紅葉シーズンには多くの人が訪れる人気スポットです。
乙巳の変からしばらくののち、落とされた入鹿の首が鎌足を追い回すようになり、談山神社の方まで彼は逃げ回ったと記録されています。苦慮した鎌足が、この田んぼの真ん中という場所に供養のため建てた塔が、「蘇我入鹿首塚」なのだそうです。
この話は談山神社の「多武峯縁起絵巻」に描かれています。このような経緯から、蘇我一族が暮らしていた曽我町の人たちは、どんなに人気でも談山神社に参拝することはないそうです。似たような話は、各地に残りますね。

この交差点が「壬寅の変」の場所。花壇が残るのみ
聖徳太子の怨霊話もこの時代の話です。長くなりましたので、斑鳩の話はまた、別の機会に。
「乙巳の変」は、時代を大きく変えたと言われています。「和をもって尊しとなす」の時代が終わり、藤原氏の時代がやってきました。そういえば、21世紀の今であっても、奈良で元宰相が暗殺された前とそれ以後は大きく変わってしまった気がします。将来「壬寅(2022年)の変」と言われる時代がくるのでしょうか? 奈良というのは、そういう土地がらなのかもしれません。