一生に一度は見ておきたい、奈良・吉野桜と権現さま

世界遺産

 

手前の桜はまだ咲いてないが、奥に蔵王堂が見える

手前の桜はまだ咲いてないが、奥に蔵王堂が見える

長年、ずっと行きたかった「吉野桜」を今年、ようやく見にいくことができました。世の中のご多分に漏れず、私も毎年3月は仕事で汲々としているので、4月の上旬の散り始めた時でも仕方ないなぁ、と半分諦めまじりで予定していたのですが、今年の桜の開花の遅かったことといったら!
例年は散り始めている時期でしたが、今年はようやく開花し始めたという有様で、残念ながら奥千本の開花前の訪問となってしまいました。でもどちらかといえば、葉桜だらけの吉野よりも、お得だったような気がします。

金峯山寺境内にある役小角の像

金峯山寺境内にある役小角の像

日本固有の仏さま・蔵王権現

吉野山とは奈良県の真ん中くらいに位置し、日本で最初に都が置かれた飛鳥の地から南に10キロほど離れた霊場です。高野山熊野三山熊野本宮大社熊野速玉大社熊野那智大社)と併せて世界遺産として登録されてもいます。
修験道の霊場として、役小角(えんのおづの/役行者とも)が開き、修行を重ねてきた場所です。役小角とは飛鳥時代に活躍した人物で、鬼すら操る呪術師とも言われ、また足腰の神さまとしても、特に山岳信仰の残る神社仏閣に祀られています。高尾山薬王院目黒不動尊品川神社の富士塚など、むしろいたるところに祀られているともいえます。この役小角が、この地・吉野で修行中に出会ったのが「蔵王権現(ざおうごんげん)」とされているのですが、この仏さま、インドや中国に起源をもたない日本オリジナルの仏さまの代表格でもあります。

蔵王堂が大きいのは仏像が大きいためだろう

蔵王堂が大きいのは仏像が大きいためだろう

蔵王権現の姿を桜の木の刻む

蔵王権現、正しくは金剛蔵王権現と言いますが、“金剛蔵王”とは最も強い王を指し、「仮の姿で現れた」を意味する“権現”が合わさった名前です。
役小角が金峯山山頂で一千日間の参籠修行の中、柔和な姿で現れた釈迦如来・千手千眼観世音菩薩・弥勒菩薩の三仏を見て、「これでは苦しみの中にいる人たちを救えない」と祈念を続けたのちに現れたのが蔵王権現だったと伝わります。その姿を桜の木に刻んだことが、蔵王権現、そして吉野山のふもとにある金峯山寺(きんぷせんじ)の始まりと言われています。

2012年のJR東海のCMで秘仏がポスターに

2012年のJR東海のCMで秘仏がポスターに

今が秘仏を拝するチャンスかも

金峯山寺の本堂・蔵王堂の本尊は蔵王権現で、日本最大の大きさを誇る秘仏と言われています。この蔵王権現は、近年、春の桜の季節(令和6年は5月6日まで)と秋の年に2回、1か月ほどの特別開帳が行われています。高さ7メートルを超える忿怒相の仏像は、一目で3体を拝することは難しく、見るものを圧倒します。ただし、JR東海のCMでこの蔵王権現の映像がずいぶん流れましたから、青いお顔で逆立った頭髪、手と足を振り上げた蔵王権現の姿は、日本一有名な秘仏となったかもしれません。とは言えこの特別開帳、実は現在進められている「仁王門大修理勧進」のためとも言われています。昔は60年に一度だけの開帳だったらしく、年に2回の特別開帳は仁王門の改修が終わる令和10年までの特別な行事なのかもしれませんね。

仁王門の修理の概要

仁王門の修理の概要

南北朝時代以降、何度も戦火にまかれた吉野

ところで吉野山といえば、室町時代に朝廷が南北に分かれてしまった時代に、南朝(後醍醐天皇)の朝廷が置かれた場所でもありました。天皇が2人いた時代は55年ほど続きましたが、天皇を迎えることができた理由は、修験僧たちが武力を備えていたためでもあります。こういった時代背景の中、金峯山寺はいく度となく、焼失の難にあっています。現在の国宝である蔵王堂は、豊臣秀吉の寄進によるもので1952(天正20)年に再建されたもの、また現在改修が行われている国宝・仁王門は南北朝時代のものと考えられているそうです。

至る所に案内碑が。広いのです

至る所に案内碑が。広いのです

吉野山を全部回るには1日では無理

吉野山には金峯山寺のほかにも、いくつかの神社仏閣が点在しています。上千本と呼ばれる場所の少し先くらいまでは車で登ることも可能ですが(桜の季節には乗り入れ規制がある)、それより先はほとんどが自分の足に頼らねばなりません。今回、私は時間的な制限もあって、また桜がまだ開花していないこともあり上千本付近までしか行くことができませんでした。その先には吉野水分神社金峯神社があり、そしてそこから10キロ以上も南に位置する山上ヶ岳の大峯山寺は「山上の蔵王堂」と呼ばれていた時代があるほど、金峯山寺とは密接な関係のあるお堂でした。たぶん、私には一生辿り着くことはできないだろう大峯山寺は、夏だけ入ることができる修験道で登ります。結界門と呼ばれる登山口から、修験者の足で3時間ほどかかるそうです。Googleマップに道は載っていないほどの山道なのです。

吉水神社の拝殿。平日でもこの人混み

吉水神社の拝殿。平日でもこの人混み

桜鑑賞も体力勝負かも

このような経緯から吉野の桜は、この地にあわられた権現さまの姿の代わりでもあります。多くがヤマザクラで約200種3万本の桜が密集しているのだそうです。
吉野桜の花見といえば太閤秀吉のものが何より有名ですが、この時は総勢5千人もの人たちを引き連れて豪華絢爛な花見を楽しんだといいます。この時、本陣としたのが現在の吉水神社、そして如意輪寺の近くの丘で盛大に盛り上がったのだといいます。
地図上では吉水神社から如意輪寺まで直線距離では600メートルほどですが、位置している山(峰?)が違うのです。歩くとなると現代人にとってはかなり辛い高低差で、秀吉の時代の人たちの足腰はほんとうに強かったのだなぁと改めて感じた次第です。

如意輪寺からの眺め

如意輪寺からの眺め

南朝・後醍醐天皇の稜もこの地にあり

如意輪寺の裏には後醍醐天皇陵である塔尾陵があります。後醍醐天皇崩御ののち、南朝は戦さに負け吉野を離脱しています。塔尾陵は後醍醐天皇の遺言で京都の方角を向いて作られているのだとか。京に対する思いを残したまま、吉野に残らざるを得なかった後醍醐天皇の思いが今もこの地に残っているのでしょうか。
如意輪寺には、南朝の戦さにまつわるいくつもの物語が残されています。明治時代に桜の木々の存続が危うくなったこともあったようですが、1300年前から続く桜が美しいのは、絢爛なだけでなく苦難の歴史を見続けてきたヤマザクラならではなのかもしれません。

奥千本の桜はまだ咲いてなくてもこの人混み。ちなみに平日で自動車は乗り入れ禁止

奥千本の桜はまだ咲いてなくてもこの人混み。ちなみに平日で自動車は乗り入れ禁止

最後に。
今や日本の桜を代表することとなった「ソメイヨシノ」は、江戸時代に江戸は染井村(現在の駒込)で園芸品として誕生しました。挿木や接木でしか誕生しないクローン桜です。生み出した職人たちは、古くから桜で有名な地名をとって「吉野」や「吉野桜」と名づけましたが、実際の吉野山に咲いているヤマザクラとは別物であることから、明治時代になり江戸の地名を頭につけ「ソメイヨシノ」となったそうです。現在、日本に植る桜の8割がソメイヨシノなのだそうですが、吉野山とは縁もゆかりも(職人の憧れはあったかも…)ない桜なのです。

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