日本の文化のはじまりがどこにあるのかについてよく考えます。畿内かもしれないし、九州や中国地方という説もあるようです。そうした中で、古くからある神社(というか神が祀られた場所)を研究するといろいろなことがわかってくるらしいのです。
日本という土地に人間がどこからやってきたのか。元々、島ではなく陸続きだったのなら、歩いて渡ってこられますが、すでに島だったとしたら。どこからか日本に上陸した人たちが上陸地点に、感謝の意味もこめて神を祀るということは、きっと普通にするでしょう。その上陸地点のひとつが、常陸国(現・茨城県)一宮である鹿島神宮ではないか、という説があるのです。
祭神はメチャ強い神さま
今では、奈良・春日大社の鹿は世界中でも知られるところとなりましたが、この神鹿の始まりは、鹿島神宮にあります。元々は香島と表記していた名を、わざわざ鹿島に変更したくらいですから、その関係の深さはおわかりいただけるかと思います。
鹿島の神さまは、武甕槌(たけみかづち)大神です。出雲の神さまに対して国譲りを迫り、信州・諏訪大社の祭神・建御名方(たけみなかた)神と力比べの末、国譲りが成立したという神話の持ち主ですね。ちなみに、この時の力比べが、相撲の原型とも言われています。
つまり、タケミカヅチとは「とても強い」の代名詞でもあるのです。
神話として伝わる現存する刀
そして、刀剣ファンならばよくご存知の「韴霊剣(ふつのみたまのつるぎ)」という国宝を所蔵されています。
韴霊剣は、タケミカヅチが葦原中国(あしはらのなかつくに/実在の世界、地上)を平定した時に使っていたもので、その後、神武東征の際、窮地に陥った神武天皇へと与えられました。この時の韴霊剣は、奈良の石上(いそのかみ)神宮に奉納され、神社のご神体となっています。
その後(奈良・平安時代頃)に、鹿島神宮で二代目・韴霊剣が作刀されたのではないかと考えられ、これが現存している国宝となっているわけです。
祭神の刀も神さまとして隣国に祀られ
さて、この韴霊剣が石上神宮で布都御魂(ふつのみたま)大神として祀られているわけですから、日本全国にこの刀の神さまは祀られています。
タケミカヅチと共に(刀として)地上を制圧した神は、2柱ともに武神として崇められてきました。日本に武士が誕生して以来、タケミカヅチとフツヌシ(ふつのみたま)は、武神・軍神として祀られてきたのです。ちなみに、鹿島神宮と、今では霞ヶ浦と呼ばれるほど小さくなってしまった内海の対岸には、フツヌシを祭神とする香取神宮(下総・一宮)が鎮座しています。現在は、2社の間をまっすぐ船で往来するするのは難しくなっていますが、13キロないくらいの直線距離ですから、昔は船での行き来は簡単だったでしょう。波も穏やかな内海ですから。香取神宮については、近いうちにご紹介するようにします。
なまずの頭を抑える「要石」
この「とても強い」の代名詞である祭神を祀る神社は、地震を押さえつけてくれるご利益があるとして、たぶん日本で唯一「地震のお守り」を出しています。
境内にある「要石」が、地震を起こすといわれる「なまず」の頭を押さえつけているといわれているのです。水戸の黄門さまの記録書によれば、7日7晩かけて石の周りを掘るも穴は翌朝には元に戻ってしまい、根元にはまったく届かなかったと記録されています。この要石、対岸の香取神宮にもあって、地上にわずかに出ている部分の形が鹿島神宮は凹型、香取神宮は凸形となっていて、なまずの頭と尻尾を押さえているのだとか。
実は、東日本大震災の時、鹿島神宮も若干の被害を受け、境内入口の大鳥居が倒れました。ただし神社の敷地側に倒れ込んだことから、他への被害はまったくなかったといいます。それを地元の人たちは「鹿島の神さまの神徳だ」と考えているようで、新しくなった鳥居も、境内で育ったの杉の大木から再建されています。
鹿がなぜ神の遣いとなったのか
ところで、春日大社は藤原不比等(飛鳥・奈良時代の政治家。藤原鎌足の次男)が、藤原氏の氏神である鹿島の神さまと香取の神さま、それに加えて藤原氏の祖神(夫婦)を勧請して、奈良時代に創建されたと伝わる神社です。4柱をまとめて「春日神」と呼ぶこともあります。
このことから、藤原(中臣)鎌足の出自は常陸国かも?という説もあるようです。
鹿島神宮で鹿が神の遣いとされているのは、天照大神からタケミカヅチへの命を届けたのが、鹿の神さまであったことからなのだそうです。そして、鹿島から春日へ分霊を鹿の背に乗せ1年かけて届けたことで、春日大社では鹿が神さまのお遣いとなっているのです。この「鹿」名は、奈良までの道中のあちこちに残っています。有名なところでは、江戸川区鹿骨(ししぼね)で、道中に亡くなった鹿を埋葬したことから付いた名前と言われています。
私が鹿島神宮で一番気に入っている場所は、楼門から奥宮へ300メートル続く奥参道です。体が洗われるような澄んだ空気と、穏やかに流れる時間が心に溜まったアカを押し出してくれるような気がするのです。その最初と最後に立つ本殿と奥宮は共にほぼ北側を向いて立っています。東国へのにらみをきかせる意味があったなどという説もあるようですが、私は単純に、祖先が渡来した方角に向かって手を合わせられるようにではないかと、密かに思っています。
その方角とは今は何もない太平洋ですが、浦島太郎の行った竜宮城とか、昔話と結びつくとなんだかロマンのある話になるような気がするのですよ。