松潤も訪れた「久能山東照宮」

家康の手形 行事と暦
家康の手形

すでに放送が始まっているNHK大河ドラマ「どうする家康」の主人公、徳川家康は7回前の癸卯年の1603年に将軍になりました。家康は、寅年寅の日寅の刻に生まれたという伝説もあって「寅」は彼のモチーフでもあったのですが、現在に生きるわれわれは今の暦で読みますから、卯年生まれ、元服も卯年、開幕も卯年となるんじゃ?などとも思ってしまいます。まぁ、どうでもよいことですが。

家康の霊廟

家康の霊廟

○家康の霊廟は2つあり

この家康の霊廟があるとされているのが、静岡県の「久能山東照宮」です。ものの本などによれば、のちに改葬され、日光の東照宮へと亡骸は移されたとなっていますし、この時の旅の様子はいろいろな記録にも残り、その絢爛さを表すのに「日光御遷坐式図巻」なるものまで刊行されているほどです。
ほんとのところ、家康はどちらに眠っているのか不明ですが(たぶん久能山)、家康の改葬行列は幕府の威光を見せつけることにおいては大きなイベントだったに違いありません。

楼門前の石段はこんな感じ

楼門前の石段はこんな感じ

○東照宮のある場所はお城だった

さて、この「久能山東照宮」の起源は、徳川が最初ではありません。遡ること推古天皇の時代(593〜628)に久能忠仁という秦氏の子孫である人物によって建立された久能寺に始まります。その後、武田信玄に征服されたお寺は、久能城を築くために現在の清水市方面へと移転させられました。信玄亡き後、城は家康のものとなり、やがては東照宮となるのです。つまりここは、要害の地として山城が築かれていたわけです。というのもこの地は、海底隆起によってできたちょっとゴツゴツとした岩山で大変見通しがよく、海岸側の表参道からは1159段という石段を登ったところに社殿が作られているくらいの場所なのです。現在は、富士山を眺めるのに絶好の場所である日本平からロープウェーがあり、比較的楽に社殿(山頂)へと行くことができます。それでも多少は石段を登る必要はありますが。

透塀に施された彫刻(写真は「竹と虎」)

透塀に施された彫刻(写真は「竹と虎」)

○今でも50年に一度の漆塗り替えが

久能寺については、後で述べますが、家康が没したのち遺言によってその亡骸は久能城に埋葬されました。翌年には徳川秀忠(2代将軍)が東照社としての社殿を建立、これが現在の「久能山東照宮」へと続きます。
日光や上野も同様ですが、絢爛な社殿はまさに幕府の威光そのもので、江戸時代には20年に一度、明治以降でも50年に一度、社殿ほかの漆の塗り替え作業が行われています。ちょっと日本の寺社の建造物とは一線を画してますよね。もっも徳川家康に縁のある建物のいくつかは、この絢爛さを今に伝えています。

拝殿

拝殿

○神となった家康の起源とは

ところで、家康を祀る社が「東照宮」と呼ばれる理由をご存じですか?
これは、家康が薬師如来の生まれ変わり、とされていることに因んでいます。この生まれ変わり話は、以前のブログの記事でしましたので、詳細はそちらでご確認いただくとして、家康の神の名である「東照大権現」についてお話ししましょう。
薬師如来の正式名称は「薬師瑠璃光如来」と言い東方浄瑠璃の世界を治める神です。つまり「東に照る(東方薬師瑠璃光)如来が権(か)りに現れた神」という意味が「東照権現」となるのです。この神を祀る社が「東照社(宮)」ですね。

家康の手形

家康の手形

○家康の手相は滅多に見ない稀有なもの

「久能山東照宮」には、家康の霊廟はもちろん、松潤も訪ねた宝物殿、将軍ごとに微妙に違う三つ葉葵の紋なども展示されています。社殿を囲む透塀にほどこされた見事な彫刻の中に「竹虎」の図版もあり、注釈も添えられています。また、家康の出世がたぶん一番の見本となっただろう、見事なマスカケ(手相)が映った家康の手形があちこちに貼られていました。天正8(1580)年11月2日の日付があり、本能寺の変の前、長男・信康と正室・築山殿の処罰の後の頃のものです。私の感想は「小さい手だなぁー」でした。

武田信玄の城だった名残「勘介井戸」が残る

武田信玄の城だった名残「勘介井戸」が残る

○久能寺も明治維新で廃寺に

ところで、信玄によって移転されらる以前の久能寺は、360ほどもの伽藍と1500人くらいの僧がいたほどの大寺でした。移転後も徳川家から多くの寄進を受けて寺格を保っていましたが、明治維新の際の混乱を乗り切れず廃寺となってしまいます。これを惜しんだのが山岡鉄舟でした。鉄舟は新政府軍の参謀西郷隆盛を説得し、江戸無血開城を実現した人物として有名です。鉄舟は清水次郎長(山本長五郎)とともに久能寺の復興のための寄進を募り、なんとか明治43年になってから再建を果たしました。残念ながらこの時鉄舟はすでに他界していましたが、復興したお寺の名が「鉄舟寺」となりました。私は鉄舟が生きている間に再建がかなっていれば、たぶん自分の名を冠したりはしてなかったのではないかと、密かに思っていたりしますが。

奉納されたプラモデル

奉納されたプラモデル

○プラモデルの技術は東照宮から

最後になりますが、松潤の参拝時にも紹介されていたように東照宮には多くのプラモデルが奉納されています。静岡はプラモデルの一大産業地でありますが、古くからものづくりの町として全国的に知られているのです。その理由は、東照宮の建造のために、日本全国から集められた腕の良い職人さんたちが、この地に移り住み、その高いものづくりの技が現在までに受けつがれてきたからなのだそうです。
そういえば、太平洋戦争時、軍需工場のあった静岡はかなりの爆撃に遭いましたね。26回もあった爆撃のうち、6月の「静岡大空襲」での攻撃で一帯は焼け野原になりました。それでも戦後復興し、もの作りの技を維持し続け、特にプラモデルの生産で、現在静岡県は日本全国の92%の生産量を占めるほどになっています。
「久能山東照宮」に行ったら、是非、あちらこちらに残されているみごとな彫刻をお見逃しなく。これが今へと続く、技の原点なのかもしれません。

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