最強のツキを持つ女性にあやかろう

守護仏
寛永寺にある5代綱吉の勅額門

寛永寺にある5代綱吉の勅額門

桂昌院はお寺の名前ではありません。“玉の輿”という言葉をご存知かと思いますが、この言葉の起源ではないか、とされている人が今回紹介する桂昌院です。少し説明すると、徳川幕府3代将軍・家光の側室であり、5代将軍・綱吉の母にあたる人です。市井にいた時の名前は、お玉と称していました。

増上寺の徳川将軍家墓所 鋳抜門

増上寺の徳川将軍家墓所 鋳抜門

○テレビドラマでは散々な描かれ方

桂昌院の今に伝わる略歴を簡単に紹介しておきましょう。
八百屋の娘として誕生しますが、実父はすぐに他界、奉公に出た家で見初められた実母が、その家の後妻として迎えられました。ここが武家であったことから、侍女の待遇でお玉は大奥へ入ることになりましたが、家光の目にとまり側室へと転じます。言うなれば2代にわたって玉の輿だったとも言えるかもしれません。その後、本来はなれる順番ではなかった息子・綱吉が将軍となって、お玉さんは大奥の最高権力者、ついには大奥の最高の位にまで上りつめました。82年の生涯はツキの連続のように思われます。
テレビドラマでは、月岡夢路、淡島千景、藤間紫、星野真里、江波杏子などが演じましたが、何れもマザコン綱吉を操り、傲慢に振る舞う大奥の実力者然として、あまりよい印象ではない描かれ方をしています。
残されている文献もあまり好意的な書き方がされていません。ですが、これも仕方ないことかもしれません。歴史というのは、人間が持つ嫉妬なくして語れる人間がいなくては正確には記録されないものです。ましてや、ここまでの大出世は、周りの人の偏見をさぞや増長させたのではないでしょうか
というように、桂昌院という人は、とても強運の持ち主だったということです。信心深かったと言いますから、そのおかげのツキだったのか、もしかしたら運の御礼のつもりが信心深いという態度となったのか、どちらにしても、とても寺社に篤信のある人だったことは歴史が証明しています。
生涯を通じ数多くの寺社への庇護、再建・再興に尽力した桂昌院ですが、以下は、特にゆかりのある神社仏閣として知られています。

護国寺仁王門

護国寺仁王門

○勝運のご利益が強い寺社ばかり

🟦墓所 増上寺(東京都港区芝公園4-7-35)
桂昌院が眠っているのは、芝・増上寺の墓所です。家康から始まる徳川家の庇護を受け、江戸城の裏鬼門を守るお寺として権勢を誇りました。家康ゆかりの黒本尊に勝運祈願のため訪れる人が多いお寺です。
🟦護国寺(東京都文京区大塚5-40-1)
護国寺は桂昌院が建立したお寺で、本尊は桂昌院の念持仏であった琥珀如意輪観音が秘仏として祀られています。今なお広大な境内を持ち、三条実美、大隈重信、山縣有朋らのお墓もあります。こちらも勝運の祈願の多いお寺のひとつです。
🟦市谷亀岡八幡宮(東京都新宿区市谷八幡町15)
市谷亀岡八幡宮の創建は太田道灌の時代までさかのぼりますが(1479年)、戦国時代の戦火で荒廃してしまい江戸時代の初期には、隆盛を極めていた頃とは比較にならないほど荒廃してしまいます。そんな中、桂昌院の厚い信仰のおかげで、江戸随一と言われるほどの神社へと復活しました。「生類憐みの令」を推進した綱吉の母ということから、ペットの祈願を早くから受けた神社としても名高いところです。

柳森神社の福壽神

柳森神社の福壽神

🟦柳森神社(東京都千代田区神田須田町2-25)
柳森神社に祀られる“福壽神”は、桂昌院が江戸城内に創建した神さまです。柳森神社自体も、江戸城を建造した太田道灌が城を守るパワーを得るために作った神社だと言われています。立身出世や選挙、株取引など、勝運にあやかりたい人が多く訪れることで知られています。
🟦京都 西山 善峯寺(京都市西京区大原野小塩町1372)
善峯寺は桂昌院の信心の始まりともいうべき京都のお寺です。強運のご利益は今も続き、阪神大震災の時、高速道路から落ちそうで落ちなかったバスの運転手さんが、こちらのお守りを持っていたのだとか。そのため合格祈願のお寺としても有名になりました。桂昌院の遺髪塚があります。

今宮神社楼門

今宮神社楼門

🟦京都 今宮神社(京都府京都市北区紫野今宮町21)
今宮神社は“玉の輿神社”の別名を持つ京都の神社です。桂昌院が育った西陣の地に近いことから、荒廃した神社を立て直し、社殿の造営などに深く関わりました。桂昌院のレリーフが境内に桜れ、彼女にちなんだ“玉の輿守”が頒布されています。護国寺近くには、今宮の神を分祀した神社を建立しました。

善峯寺本堂(観音堂)

善峯寺本堂(観音堂)

○本当の姿はどうだったのか

「生類憐みの令」が天下の悪法と言われ続け、桂昌院や綱吉は歴史舞台では悪者として描かれることが多いようです。
一方で、商人の出の女性が、将軍の母になり最高位の地位を得たという経歴は、世間では良い噂より悪い噂の方が信じられ易かったのではないでしょうか。それが記録され積み重なり、歴史となっていったのでしょう。“歴史はのちの勝者に作られる”の典型とも言えるのかもしれません。
そんな彼女が残した場所には、今なお強いパワーがあるようです。後世にこれだけの力を伝えていることは間違いないですし、日本の歴史上、これ以上のツキを持った女性がいたでしょうか? 彼女のおかげで、いくつもの宝が今も日本の各地に残されていることを、是非知っておいてほしいと思います。

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