武蔵一宮はひとつの社ではない

一宮

現在の東京、以前は武蔵国(現在の埼玉・千葉・神奈川の一部を含む)と呼ばれていた国は、とても広い範囲となっていますが、これは古代に2か3つあったであろう国を、戦いに勝利した国造(くのみやっこ/地方首長の身分称)が治めることになったためと言われています。これはまだ、大化の改新(645年)前の話で、古事記や日本書紀の記述には、アマテラスから生まれた神(アメノホヒ)を先祖に持つ无邪志(むざし)国造の名が元にあったという説があります。
もっとも、時代が下ると他にも各種説が唱えられるようになりました。

武蔵国の中心は今よりずっと北寄り

その中で、私が気に入っている話は、江戸名所図会の巻頭に描かれている「東征中の日本武尊が武器を納めた土地だから(武の蔵)」というものですが、残念ながらこれは史実ではないようです。
このように、日本の中心となるのは江戸時代以降ですが、武蔵国の歴史は古く、その先祖は出雲国や新羅(朝鮮半島)から逃れてきた人たちが定住したなどの記録も残されていて、よく見れば、その名残が見られる地名なども関東にはいくつも残っています。
この時代の武蔵国の中心は、現在の府中、埼玉県南部(秩父)、神奈川西部あたりで、南側は大きな湾と砂洲でしたから、交通には舟が多用されていました。日本武尊の東征の話でも、関東では舟に関する旅が描かれていますね(この話はいずれします)。

多摩の小野神社

多摩の小野神社

現在は5つある、旧武蔵一宮

こんな広大な国でしたから、延喜式(905年成立)に記載された一宮は、連絡網として利便性のよい場所が選ばれたに違いありません(一宮の役割は、朝廷からの伝達係も含まれていたとか)。
武蔵国の一宮は、現在2社あります(正確には5社)。まず、多摩にある「小野神社」、もうひとつは大宮(埼玉県)にある「氷川神社」です。これはどちらも、正しく一宮です。
最初は小野神社が担っていた一宮の役割を、室町時代以降に氷川神社が担当するようになったのでは、と考えられているからです。でももしかしたら、武蔵国は広すぎて2つの一宮が必要だったのかもしれません。

府中の小野神社

府中の小野神社

多摩川の流れが必要だった

さて、多摩川のそばに建つ「小野神社」は、川の氾濫(加えて流れの変化)に備えて、多摩川北の府中にも分社ができました。川の流れ次第で、いずれかの社が本社の役割をしていたのではないかと考えられています。それならば、本社はもっと別の(例えば現在の多摩川の中とか)場所だったのかも、という推測もできる話です。
いずれにせよ、多摩川は古代から交通網として大変有用されてきましたので、武蔵国の古社はこの流域に集中しています。武蔵国総社・大國魂神社もそうですし、阿伎留神社など延喜式の神社は多摩川の上流に位置します。

大宮氷川神社

大宮氷川神社

氷川神社が位置した場所

一方の氷川神社にも、氷川女体神社中山神社(旧・中氷川神社)という一宮候補があります。
こちらも、元々は同じ境内に建つ社であったのではないかと考えられているため、元は同じ「氷川」であったというわけです。
現在では、一番北側の大宮氷川神社と、南の氷川女体神社の社殿の距離は7キロ弱ありますが、以前は大きな湖と沼が広がっていたので、それぞれの陸地にお参りできる祠が作られていたとも言われています。
今ではまるでつながりのない社のような位置関係ですが、昔の地形を見ると「なるほどなぁ」ときっと思うことでしょう。下記の画像は、貝塚が作られた当時の地形図です。ちょうど利根川の流れが分かれているあたりに氷川神社があったのです。

古墳時代の関東の地図

古墳時代の関東の地図

氷川女体神社

氷川女体神社

祀った神は時代の要請

最後に祭神に目を向けて見ましょう。
小野神社の祭神は(2社ともに)天下春命(あめのしたはる)と瀬織津比賣命(せおりつひめ)で、開墾の神と水神です。
一方の氷川神社の祭神は、須佐之男命・稲田姫命・大己貴命の三柱、これは出雲の神さまとも言えます。また、奇稲田姫命(稲田姫命)は須佐之男命の妻で、大己貴命は2人の子(あるいは子孫)とされている神であり、氷川女体神社と中山神社の祭神でもあります。

中山神社(旧・中氷川神社)

中山神社(旧・中氷川神社)

この神さまの顔ぶれを見ると、はじめは開墾と国の発展を必要とした武蔵国では一宮を小野神社とし、のちに豊かな時代(とは言ってもすぐに戦国時代に突入しましたが)になると、自分たちの祖先(起源)を大事にしたくなった、というべき変化なのかもしれません。
武蔵国はこうして一宮を変えました。神社の歴史を探ると、その土地で営まれてきた歴史を推測できるよい指標を見つけることができます。今、流行りの「認知プロファイリング」とでもいえそうですね。

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