昨日から3年超も続いた「行動制限」が解除されました。いったい何が変わって解除となったのかさっぱり理解できませんが、各地が観光客で賑わっているのを見るにつけ、皆、自粛生活に嫌気がさしていたんだなぁとつくづく感じます。そんな中、地震や大雨に見舞われた地方の皆さまには一日も早い日常生活が復活できるよう、お祈りしたいと思います。
3度目の正直でやっと渡れたよお
というわけで私はというと、ずっと訪れたいと思っていた琵琶湖の中島である「竹生島」に行ってきました。実は今回がチャレンジの3回目という、なぜだか天候に恵まれず行くための唯一の船が欠航になってしまうことが2回もあったのです。今回も訪れた夜、ものすごい雷雨があって天候が数時間早く崩れていたら、再び渡航を断念することになっていたかもです。私、竹生島に嫌われてるのかなぁ…。
琵琶湖は世界で3番目に古い湖
竹生島の前に、琵琶湖の説明をしておきましょう。誰もが知っているように日本で一番大きな湖で、滋賀県の1/6の面積を占め、県内の98%の水を集めているのが琵琶湖です。世界で20個しかない古代湖(100万年以上存在するもの)のひとつで、アラル海、バイカル湖に次いでの古さを誇り440万年ほど前に形成されたと考えられています。
今回の旅で、近畿圏では言い古された決まり文句に「琵琶湖の水止めたろか」というものがあるのを知り(関連グッズがたくさんあった)、調べてみると、琵琶湖は関西(京都・大阪・神戸まで!)1400万もの人が利用する水を供給していました。琵琶湖に流れ込む川は450本ほどありますが、流れ出る川は淀川1本!(正確には取水と電力活用で3系統)ですから、彼らは琵琶湖に命綱を握られているようなものかもしれません。
行基が開いたお寺が始まり
そんな琵琶湖のほぼ北端付近に浮かぶ小さな島が、私が今回訪れた「竹生島」です。以前から何度もご紹介(東京のパワースポットを歩く)してきたので聞き慣れた名前かもしれません。何しろ、江戸の町を築く際、徳川家康の参謀であった天海が、寛永寺を作る際に模したお寺がある島です。あれだけ紹介しまくっていた私が、未踏の島だったことはなんとも申し訳なく思う次第です。
古くは、縄文時代から人々が生活していたという痕跡が残る場所ですが、信仰の島としての始まりは奈良時代の神亀元(724)年、聖武天皇が霊夢を得て高僧・行基を派遣、弁財天を本尊としてお堂を建立したものです(のちに紹介する伝説の主・浅井姫命を祀る社があったとの説もあり)。現在、宮島、江ノ島、竹生島は日本三弁才天として崇められていますね。
神仏習合の象徴・弁財天
さて、私が「宮島・江ノ島・竹生島」と寺社名ではなく島名を書いたことには理由があります。
どの島も明治時代の神仏分離令の影響を大きく受け、宮島と竹生島にお寺は残りましたが、江ノ島はすべて神社の形となりました。宮島は最初から厳島神社(伊都伎嶋神社)という名でしたが、平清盛などが経典を奉納したなどの史実が示すように本来の姿は神仏習合の聖地であり、いずれの島も神であり仏をお祀りしてきた土地です。そして、江島神社は本来、与願寺というお寺だったのです。
竹生島は、現在「宝厳寺」と「都久夫須麻神社(竹生島神社)」が両立しています。こちらも明治時代の廃仏運動の折、宝厳寺は廃寺の危機を迎えましたが、全国の信者からの支援を得て存続するに至りました。結局、弁天堂であった本堂が神社の本殿として使用されることとなったのです。
貴重な国の宝が点在
とはいえ、竹生島の現在もお寺と神社がきっかり分かれているかといえば、そうでもないかもしれません。
拝観料を納めるのは渡航船を降りてすぐの階段下の1か所だけで、あとはぐるりとお寺と神社の境目を意識することはありません。
お寺のご本尊は大弁才天で、行基が刻んだものという伝説があります。また、観音堂には千手観世音菩薩が祀られ西国三十三所の30番札所となっています。
よい例が、観音堂と都久夫須麻神社は、渡廊下でつながっているのです。これを分離できなかったのは、現在、観音堂の入り口である唐門が国宝、本殿も国宝、観音堂とこれをつなぐ廊下も重要文化財に指定されているくらいの貴重な建築物だからでしょう。
秀吉が作り秀頼が寄進した伽藍
これら観音堂から本殿までの建築物は、すべて豊臣秀吉によって作られたものがこの地に移築されたものです。まず、唐門は(近年判明したことですが)大坂城の極楽橋の唐破風造部分だったものが豊国廟を経て移されたことが分かっています。また、観音堂と渡廊は豊国廟からのもので、慶長7(1602)年に豊臣秀頼により移築されました。渡廊は秀吉の御座船・日本丸の船やぐらの材木を使用したとも言われ、「舟廊下」とも呼ばれています。よくみると、天井は船底をひっくり返した形のようにも見えますね。
そして神社の本殿は伏見城の日暮御殿の一部を秀頼が寄進したと伝わります。秀頼は、秀吉の遺構を残したかったのかもしれません。
信長も参拝の記録が残る
実は竹生島には、不思議な伝説がいくつも残っています。
島の成り立ちとして、伊吹山の神(タタミヒコノミコト)と浅井岳(現・金糞岳)の神(アサイヒメノミコト)が高さを競ったところ、負けたタタミヒコノミコトが怒り、アサイヒメノミコトの首を切り落としたものが琵琶湖へ転げ落ち竹生島となった、というものです。落ちた時「都布都布(つふつふ)」との音がしたことから「都布失島」となった、という説もあるようです。このため、都久夫須麻神社の祭神として弁天さま(市杵島比売命)と並んでアサイヒメノミコトも祀られています。
また、戦国時代、延暦寺(天台宗)につながるお寺を次々と焼き払っていた織田信長が、宝厳寺だけは見逃していたという話もあります。浅井家が代々大事にしてきたお寺だったこともあり、籠城中の浅井長政が、焼失した宝厳寺復興のため材木を寄付し運んでいることをも許していました。信長にとって竹生島が特別だったのか、あるいは長政への温情だったのかは不明ですが。ちなみにこの木材は、秀吉によって長浜城築城に使用されてしまい、再建はできませんでした。
このほか、島内には多くの堂宇が残っていますが、参拝者が訪れることができるのは、小さな島であるにもかかわらず南側の一部のみで、北側の多くは禁足地となっています。古くからの聖地であったことから、空海をはじめとした高僧が庵を結んだり、能などの芸能の演目・楽曲としての作品も作られてきました。
琵琶湖の西側に位置する延暦寺には、多くの子院や末寺がありましたが、寛永寺を作った天海は、延暦寺を模した寛永寺に必要なお寺として宝厳寺を選び、不忍池に弁天堂を作ったのです。それほど、意味のあるお寺であったということでしょう。秀吉ももっと大事にするべきだったのかもしれません。そうすれば、天下はもっと長く続いたのかもしれないですね。