聖徳太子が本尊を刻んだ百済寺

国宝仏

NHKが朝ドラ撮影中に重要文化財の本堂を壊した、というニュースが(ネットで)話題になっていますが、一昨年から続く「聖徳太子1400年御遠忌」関連行事のご紹介もしていなかったので、ちょうどよいかなと思い、破壊された「百済寺(ひゃくさいじ)」について今回は書いてみようかと思います。

美しい参道

美しい参道

聖徳太子が没して1400年の記念の節目に

突然ですが「『聖徳太子1400年御遠忌』なんてテレビなんかで全然やってないじゃん」と鐘太郎が言いました。そうなんですよね、なぜだか近年聖徳太子を無碍にする風潮があります。すでに教科書からはその名は消され「厩戸皇子」となっているようです。まぁ、確かに「聖徳太子」は死後、贈られた名前ですから、生きている間の仕事を紹介する時には「厩戸皇子」が正しいのかもしれません。ただ、日本最初の高額紙幣・一万円に肖像画が使用された人物であり、日本の歴史の中で事あるごとに崇められ、奉じられてきた魂というのは、目に見える現実的なものだけでなく、時代時代に何かしらの影響を与える今ある科学だけでは説明のできないことが多くあることは事実です。そういえば一昨年あたりから、100〜120年に一度しか咲かないと言われる「竹の花」が各地で咲き誇っているようです。さらに、今年は害獣による被害も少ないためタケノコも豊作だとか。
もしかしたら、本能が衰えた人間にだけ、気づかない地球からのメッセージがあるのかもしれませんね。

遠望台からの景色

遠望台からの景色

本尊は聖徳太子の彫刻仏像

そんな聖徳太子ゆかりのお寺が「百済寺」です。
琵琶湖の東岸の山の上に作られたお寺で、紅葉の名刹とされる「湖東三山(西明寺・金剛輪寺・百済寺)」の一角を担います。606(推古14)年に聖徳太子によって創建された滋賀県内最古のお寺として知られ、本尊は十一面観音菩薩、秘仏のためご開帳は半世紀に一度とされています。
このご本尊は、高句麗の僧・慧慈(聖徳太子の仏教の師でのちに帰国)とともにこの地に入り、1本の杉の大木の上部を百済・龍雲寺の本尊用として輸出されたことを知った太子が、根のついたままのその木の下部に十一面観音を刻んだものと伝わっていて、このため、別名を「植木観音」とも呼ばれることとなりました。

天下遠望之図

天下遠望之図

百済寺が建立された位置の不思議

このような経緯から寺名が「百済寺」となった、と言われます。そして「百済寺」と「龍雲寺」はほぼ同緯度の一直線上にあり、仏さまは向かい合って安置されていたのだとか(龍雲寺は百済の国の消滅とともに廃寺に)。また、この一直線上には太郎坊(阿賀神社)、比叡山(延暦寺)、次郎坊(鞍馬山)もあって、渡来した人たちが百済へ向けて祈りを捧げたのだといいます。
多少のズレはありますが、ほぼ北緯35.1度付近であることはまちがいありません。飛鳥・奈良時代にこのような測量術を用いていて建築をしていたのだすれば、現在残る寺社の配置も適当ではないのかもしれませんね。

鐘撞く鐘太郎

鐘撞く鐘太郎

3度の焼失から立ち直って

実は近江国(現・滋賀県)は、奈良や大阪よりも日本一聖徳太子ゆかりの文化財が残る場所なのです。滋賀県で開催されている太子関連イベントは、令和3年秋から始まり、今年の12月まで続きます。ゆかりのお寺での法要やご開帳などが続けられてきました。
百済寺でも昨年秋に特別参拝と法要が行われたばかりです。
百済寺は、琵琶湖対岸の比叡山にある延暦寺を本山とする天台宗のお寺です。織田信長による延暦寺焼き討ちは、対岸のこの付近一帯の天台宗のお寺にも及びました。信長の焼き討ち以前に、すでに1000坊あったという大寺は火災と戦国の争いで大半を焼失していましたが、復興の途中、信長による焼き討ちで本尊・脇侍以外のほどんどを失うまでになってしまったのです。

6月まで開帳されている脇侍

6月まで開帳されている脇侍

院派の銘作がご開帳中

このようにいくつもの記録が焼失してしまっている背景もあって、寺伝による聖徳太子伝説を疑問視する研究者もいるようですが、飛鳥時代に制作されたものと見られる秘仏の「金銅弥勒半跏思惟像」が、創建の時代を知る上でも注目に値する仏さまと言えそうです。
また、令和5年6月30日まで、本尊の脇侍である聖観音坐像と如意輪観音半跏思惟像の特別公開が開催されています。これに伴い特別ご朱印もいただけるようです。1498(明応7)年作と書銘のある両仏の姿は、500年前のものとは思えないほど、状態もよく美しい姿を見せています。運慶らによる慶派に押され残され作品の少ない「院派の銘作」として知られる仏像として知られています。

本坊庭園

本坊庭園

フロイスが「地上の楽園」と紹介

また、百済寺の梵鐘は、余韻の長さと美しさで知られ、何を隠そう鐘太郎もこのお寺の鐘を撞かせていただき、今でも事あるごとにその音色のよさを口にするほどです。
なにより、宣教師のルイス・フロイスが「地上の楽園」と紹介したほど美しい境内は、紅葉の季節はもちろん、私の訪れた緑葉の季節でさえため息が出るほどの美しさでした。
それがゆえに、映画やドラマのロケ地として多く取り上げられてきた経緯があります。有名なもので言えば映画「関ヶ原」「蟲師」「江戸城大乱」、ドラマ「剣客商売」「功名が辻」「雲霧仁左衛門」「加賀百万石」などなど。特にNHKのドラマ班にとってはなじみあるロケ地であったのでしょう。

仁王門には有名な大わらじが

仁王門には有名な大わらじが

戦国時代に受けた被害に次いでの破壊に

ちなみに破壊された本堂は国の重要文化財で、私も静々と歩かせていただきましたが、それでも場所によっては軋むところもあるくらいの様子で、ここで多人数が踊るという設定を思いつくのもすごいものだと感じた次第。
戦国時代に見舞われた3度の戦火ののちに徳川幕府・彦根藩からの支援により復興したこの本堂は、仁王門とともに1650(慶安3)年に作られたものです。お寺の歴史から見れば築370年は大したことはないのかもしれませんが、織田信長から受けた被害の次が公共放送からというのもなんだか皮肉な話です。

金銅弥勒半跏思惟像を模した石造

金銅弥勒半跏思惟像を模した石造

さて、聖徳太子の没年は文献によって違っています。このことが「聖徳太子1400年御遠忌」が3年に渡って続いている理由でもあります。没後、太子についての歴史は、誰かによって書き換えられたか、削除されたか、創作されたか、本当のところはタイムマシーンができない限りもうわからないでしょう。それでも美しい百済寺はこれからもずっと聖徳太子伝説とともに続いていってほしいと願っています。

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