農家から収穫物を盗んでいくというニュースを見るにつけ、われわれ日本人の感覚からすると「よくもまぁそんな人でなしなことを」と思いますが、ネットの画像にもっと信じられないものが上がっていて唖然とさせられました。それは、中国で収穫前の畑から、何百人もの人たちが白昼堂々、作物を奪い取っているもので、警察官や所有者を振り切り、好きなように盗っていくのです。翌年の作付のことなどはもちろん考慮しませんから、人が立ち去ったあとはただの泥地に見え、まぁ、イナゴの被害の方が少しはマシなのではないかと感じるほどの凄まじさです。所有者たちは地面に伏して泣き崩れていますが、畑に入った盗人たちはまったくお構い増し。他人の物を盗むことにこれほどまでに抵抗がないなんて、まさにこれを人でなしの所業と言わずして何と言いましょう。
「八百万の神さま」を感じられるか
「人でなし」とは、つまり「人間ではないもの」を指し、人非人を意味します。仏教では緊那羅(きんなら/帝釈天の眷属)の通称とされていますが、この神さまは中国ではカンフーの守護神とも考えられているのだとか。しかも法の守護ともされる緊那羅を人でなしと並べるのは申し訳ない話ですね。
日本人は「人に迷惑をかけない」ように生きることが大事、というように教えられてきたように思います。この「人」というのは、人間だけでなく、他の生き物であったり植物、もっと言えばは生物でない建物なども含まれているような気がします。だから、むやみやたらに汚したり傷つけたりしないですよね。たぶん根本にあるのは、どんなものにも神が宿るという「八百万の神さま」を感じているからなのではないでしょうか。
天網恢恢疎にして漏らさず
日本には「因果応報」とか「天網恢恢疎にして漏らさず」、また「大難が小難」「塞翁が馬」といったことわざがあります。大半は中国の文献からきたものですが、考えてみたら、言葉として残さなければいけないほど荒れた世界だったからこそ、皆が口を酸っぱくして言い募っていたのかもしれません。
ところが、日本には八百万の神さまがおられまして、何かが災難があった時「ああ、この程度の厄難ですんだ。ありがたい」「この災難を糧にして気をつけろということだろう」などと、普通の人たちの間に広まっていきました。
悪事を働く人に対して「天網恢恢疎にして漏らさず」と言って、報いを受けるに違いないと評したり、その場を我慢したり、将来何かしらの厄難がそれら悪人に降りかかった時、因果応報と冷たく突き放したりします。勧善懲悪のドラマが人気の理由は「天網恢恢」がすぐに実現する世界観のせいかもしれませんね。
神さまが存在する理由
ほんとうに神さまがいるのかは、たぶんその人たちの心持ちひとつなのだろうと思います。いると思えばいるし、いないと思えばいない。でも不思議と日本人は、誰も見ていなくてもあまり悪さができない人たちが多いのも事実です。人がいなくても「天が見ている」と思うと、なんとなく信号無視もできないですよね。
芥川龍之介の児童小説「蜘蛛の糸」の話はあまりに有名ですが、元はアメリカ人がまとめた仏教説話の中のひとつなのだそうです。これに尽力したのは日本人のお坊さまたちで、仏教説話というのはすでに日本の中にしか残っていないのかもしれません。
そう考えると、神さまの存在(実在ではなく)というのは人間の行動に大きな影響を与えるものですね。
ヤマトタケルロードが意味するものは
実は、先日ヤマトタケル伝説を追っての道筋で、栃木県の那須方面へ行ってきました。江戸時代、日光のある現在の栃木県のほとんどは、幕府領か旗本あるいは小藩が治めていたのですが、日光から少し東側へ逸れた一帯は、水戸藩の所領でした。ですからヤマトタケルに加えて水戸光圀の逸話も各地に残っています。という背景もあってか、戊辰戦争では早々に新政府軍についた地域でもあり、東北と対立した最前線ともいえるかもしれませんね。
話をヤマトタケル時代に戻します。
ヤマトタケルの伝説を、鉱石の発掘路(例えば鉄や銅など)と考えている研究者もいます。蹈鞴吹き(たたらぶき)の炉が神の祠の始まりという説もあって、古代の記録というのは読み方次第だなぁと思っています。
遷都をくりかえす聖武天皇の謎
さて、須郡那珂川町健武というところにある健武山(たけぶやま)神社という延喜式神名帳にも記載のある古社があるのですが、祭神は日本武尊と金山彦命、創建は大同元(806)年と記録されています。
神亀6(729)年、藤原氏が長屋王を誣告により排斥(一族自刃)したことにより、聖武天皇はすぐに天平へと改元しましたが、天平時代は国難が続きました。天然痘が全国的に広まり、主だった藤原氏が病死、これらのことから遷都も繰り返されました。天平時代に大寺が建立されたのは、この国難からの脱却を神仏に祈るためでもありました。中でも天平15(743)年に発願された東大寺の大仏は聖武天皇の大願でしたが、仏像に塗る金が不足するという自体に陥ってしまいます。このことから天平20年、たった4か月しかいなかった紫香楽宮(現在の滋賀県甲賀市)から平城京へと戻っています。一説には、大仏を紫香楽宮に建立しようと聖武天皇は考えていたとも言われています。この天平時代の繰り返された遷都については、未だに謎とされています(天網恢恢が怖かったのだと思いますけど)。
日本で初めて金を産出した場所
平城京へ戻り、聖武天皇は出家しました。すると、陸奥国から「金が出た!」と知らせが届いたのです。そして金の献上は10年ほど続けられ、奈良の大仏はやっと完成します。この地には現在「健武山神社」が建てられました。ヤマトタケルを思い起こさせる名と、祭神には金山彦命が祀られて。金の産出は聖武天皇にとっては天平時代最大のよい知らせだったのしょう。すぐに天平感宝と改元しました。
ところで。
実は現在の「日本で初めて金を産出した場所」は宮城県涌谷の黄金山神社の地だとされています。黄金山神社自体は数社あるようで、いずれも祭神は金山毘古神です。昭和の発掘で涌谷にある黄金山神社が天平時代に金を産出した場所であると確認されたようですが、間違いなく陸奥国が聖武天皇を助けたことは事実でしょう。この献上を行った中心人物が、当時陸奥の国司を務めていた敬福(きょうふく)でした。この後、彼は朝廷で重用されていきます。
さて健武山神社は承和2年に従五位下を授り、続日本後記には「此の神座は採砂金山にあり」と記されています。そばを武茂川が流れ、金洗沢の地名が残るこの地は近世まで砂金が採れていたようです。その後、水戸藩からも厚く寄進を受け水戸領十八ヶ村の総鎮守となりました。
一方、黄金山神社は江戸時代中期まで社史が残っていません。水戸藩と伊達藩との間で、天平時代の歴史認識の争いがあったのは間違いないでしょう。それでも、やはりヤマトタケルが祀られているかいないかは、鈴子的には大事な要素ともいえます。東日本におけるヤマトタケルロードに残る神社の社史は、日本書紀よりも少しだけ本当のことがわかるような気がするからです。特に、平安時代前ともなれば。