今年の夏は雨がない地域と多すぎる地域がきっかり分かれてしまった感がありますよね。秋が来ようかというこの時期に、台風が3つも南の海上にあって、いつもならどれかは本州を襲うだろうルートが、全部外れて日本の被害はほぼ沖縄・奄美地方に集中しているようです。暑すぎる夏も影響しているのでしょうが、大気の自浄作用が必要な場所に台風が向かっているのだとしたら、日本の南国の人たちにとっては、ひどいとばっちりですよね。
奄美の神を描きたかった田中一村
実は近頃、私は奄美諸島にずっと魅せられています。きっかけは平家の落武者の歴史を追ったことに始まるのですが、知れば知るほど奄美に棲まう人たちの人生観や自然に対する思いのようなものにすっかり感銘を受けてしまったのです。簡単に言えば、神々の棲む島と言っていいような気さえするのですが、この神に魅せられた有名人の一人が、田中一村という画家です。日本のゴーギャンとまで呼ばれた彼の人生を追った番組が、つい先日NHK-BSで放送されました。番組を見ながら、私に絵心がなくてよかったと本当に思いました。表現する力があれば、奄美の持つパワーを描きたいと思っていたことでしょう。田中一村は、描ききれたのちすぐに亡くなってしまったように見えます。
歴史が遺物としてでなく伝わる場所
というわけで、今年の6月末、奄美地方に豪雨をもたらした梅雨明け直後に、私は奄美大島へ再び渡りました。ちなみに、柴又の寅さん(渥美清版)の最後の作品「男はつらいよ 寅次郎紅の花」のロケ地は奄美です。リリーさんと暮らした家もそのまま残っています(なんと!宿泊もできるのです)
また、太平洋戦争中にここから多くの若者が出陣して行きました。前線であった土地ならではの爪痕がそこかしこに残されています。
奄美の島々には、過去の世界も時代の流れの中で消えゆくものではなく、記録され残されながらきちんと現代まで引き継がれています。それが6000年前の石器時代のものでさえ、森の奥深くに残っているというのですから驚きます。もちろん、それらの場所にはその時代の神が棲まわれていたからなのでしょう。奄美の人々は、日本人がはるか昔に無くしてしまった自然とコンタクトの取れる感性が残っているのではないか、自然から何かを感じ取る力があるのではないか、そんな気がします。
平家はどこまでも落ちていった
さて、奄美諸島の歴史は旧石器時代の遺跡にまで遡ることができます。縄文時代には本土との交易の跡、貝殻などを交易品として使用していたらしいです。そして日本書紀などにも「阿麻弥人」「菴美」などと記載があり、大和朝廷とのつながりが記録されています。中尊寺金色堂(岩手県)の螺鈿に奄美産のヤコウガイが使用されているくらい、貴重な交易品だったのでしょう。
ところが、奄美の島々は、琉球王国や宋(など他の歴代中国の国々)、鹿児島に位置する豪族などの支配や襲撃を受け続け、最後にはアメリカの占領地にまでなってしまうのです。
そうした難しい過去を持つ奄美の島々ですが、それはまた長い歴史の中でしっかりとした海路が出来上がっていた証でもあります。壇ノ浦で敗れた平家一族は日本各地へと逃走しますが、海路を伝い鹿児島の海を出た平家の残党は沖縄までつづく列島各地に、様々な落武者伝説を残したのです。
各島で神さまとして祀られる平家の落人
九州各地にも平家の落武者伝説は多く残りますが、鹿児島県特に沖縄に渡るまでの小さな島々にはほとんどの島に平家の伝説が残っています。種子島や硫黄島、屋久島、トカラ列島、中でも悪石島(あくせきじま)の島名は、源氏の追手が立ち寄らないであろうと付けられたとも伝わります。平仲盛・光盛、平重盛・有盛・盛時と言った名が刻まれ、各島には今なお平家の子孫とされる氏が伝わっていることも特徴です。
そして奄美諸島のうち喜界島、奄美大島、加計呂麻島(かけろまじま)に、それぞれ平行盛・有盛・資盛が流れ着き居を構えたと言われているのですが、彼らを祀った神社もしっかりと残っているのです。奄美大島には行盛神社と有盛神社があり、加計呂麻島に大屯神社(平資盛が祭神)があります。
大屯神社に残る諸鈍シバヤという文化財
今回、ご紹介するのは加計呂麻島にある大屯(おおちょん)神社です。境内に資盛の墓碑が残っていること以上に興味深いのは、国の重要無形民俗文化財にも指定されている「諸鈍シバヤ」というお祭りです。毎年旧暦9月9日(令和5年は10月23日)に行われていますが(台風で中止になることもあり)、平資盛が土地の人たちとの交流にと京の文化である芸能を伝えたものとされています。かつては20種あった演目も今では11演目となっていますが、狂言や人形劇などで京や宋(現・中国)の話などを紙の仮面を被った男たちが演じるのです。当日行けなくても、この様子は神社から400メートルくらい離れた場所にある「加計呂麻島展示・体験交流館」という所でビデオや写真で見ることができます。800年前、娯楽などないこの島でこの劇が見られたとしたら、資盛は大いに楽しんだことでしょう。シバヤは芝居が訛ったものだと言われていて、資盛は懐かしい京の生活を再現したかったのかもしれません。また「諸鈍」は地名ですが、資盛が部下たちに言った「もうここまでは追手はこないだろうから皆“鈍”になれ」にちなんだとのこと。
ちなみに寅さんのロケ地・徳浜までは大屯神社から距離もありますが、リリーさんの家までは「加計呂麻島展示・体験交流館」から徒歩圏内で大屯神社とは反対側の海辺に位置します。とにかく一度は訪れたくてたまらなかった島なのです。
ここでも平家と源氏が併立していて
加計呂麻島の海はどこまでも青く澄んでいて──もちろん奄美は全部そうなんですが中でもダントツに──浮かんでいる舟が空中に浮いているように見えるくらいの透明度なのです。大屯神社から一番遠い加計呂麻島の北側に実久(さねく)ビーチという海岸線があるのですが、この名はここにある「実久三次郎神社」から来ています。実久三次郎は誰あろう、源実久三次郎、源頼朝のいとこにあたるのだそうです。話は長くなりますが、実久三次郎は源為朝(頼朝の叔父。乱暴者で各地で狼藉を働き伊豆大島へ流され最期は追討され自害。各地に伝説を残し奄美から琉球へ渡り、初代琉球王・舜天の父という逸話もある)とこの地の女性との間に生まれた息子だとされています。南海の島に、平家と源氏の伝説が残っていなんて興味深いでしょ。
加計呂麻島ではコンビニどころか、自販機を探すのも大変です。ですが寅さんがゆったりとした時間を過ごしたように、何やらしっくりくる空気が流れていました。まぁ、船で着いたとたん、レンタカーで崖に突っ込んで事故った人たちにも遭遇しましたが(島に拒否されていたんだと思う…)。
たぶん、すっかり忘れてしまった人間の感覚が戻ってくるような気がする島々が奄美です。今回ちょっと調子に乗って海に潜ってみたら、ウミガメさんに出会いました。付き添いのスタッフが撮ってくれた写真がすばらしかったので、サービスカット(うーんウミガメがってことで)もアップします。ハワイなら罰金ものですが。